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著名なユダヤ系アメリカ人 ~映画監督編

ウディ・アレン 

Woody Allen(映画監督)本名アレン・スチュアート・コニグズバーグ 1935年ニューヨークのブロンクス区で、ユダヤ系の家庭に生まれました。父親のマーティン・コニグズバーグと母親のネティーは、アレンが生まれてから妹のレッティが生まれる直前まで、ブルックリンを中心に10数回も引越しを繰り返していました。その間、母親の姉妹や、ドイツにおけるナチスの迫害から逃れてきた親類との賑やかな共同生活と、素性の知れない、時に凶悪な面を見せるベビーシッターとの生活を余儀なくされた子供時代を送っています。映画監督としての顔が有名ですが、俳優、脚本家、小説家、クラリネット奏者など様々な顔を持っています。コニグズバーグ家は正統的なユダヤ教徒だったので、ユダヤ教の様々な儀式を行い、アレンもまた、8年間もの間ヘブライ語学校に通うことになりましたが、これは宗教嫌いに拍車を掛ける結果となりました。ウディ・アレンの作品は、生まれ育ったニューヨークの文化や暮らし、人々のメンタリティをテーマが多く、そこに住むユダヤ人のそれを主題としています。彼自身がユダヤ人であることの差別とそこから来るコンプレックス、自己意識などを織り込んだコメディを得意としています。また、ハリウッドに背を向けた映画人としても知られています。『アニー・ホール』(1977年)で、アカデミー監督賞、作品賞を受賞した時も、授賞式には出席しませんでした。唯一アカデミー賞の授賞式に姿を現したのは、2002年の授賞式で特別プログラムとしてニューヨークを舞台にした作品集の紹介を依頼されたときのみです。フランスなどの文化程度の高い先進国を中心とした国外においても非常に高い評価を受けていることでも知られています。

スタンリー・キューブリック

Stanley Kubrick(映画監督)開業医を営むオーストリア=ハンガリー帝国に起源を持つユダヤ人の両親の長男としてニューヨークのマンハッタンで1928年に生まれました。ハイスクール時代のIQは平均以上でしたが、成績は平均以下で、1946年ニューヨーク市立大学シティカレッジに入学するがすぐに中退。少年時代にキューブリックの興味を引いたもの中にカメラ、チェス、ジャズがあり、その中のカメラが彼の経歴の出発点となりました。ジャズバンドのドラマーを目指していましたが、当時の大統領フランクリン・ルーズベルトの死を報じる一連の写真が写真雑誌『ルック』誌に売れたことにより、見習いカメラマンとして在籍。写真雑誌『ルック』に載った自身のフォト・ストーリーを元に短編ドキュメンタリー『拳闘試合の日』を製作し、映画の道を歩み始めることになりました。SF三部作と呼ばれる『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』、『2001年宇宙の旅』、『時計じかけのオレンジ』の成功で世界の批評家から映像作家としての才能を認知されました。映画『スパルタカス』の大成功をきっかけに有名監督になりますが、その後のインタビューで「私の意見はカーク・ダグラス(=製作責任者)にとって多くの意見の一つに過ぎなかった」と述べるなど、最終決定権が監督ではなくスタジオやプロデューサーが握るハリウッド・メジャーの製作システムにあるとして、これを度々批判しアメリカ映画界と決別してイギリスへ渡り映画製作を続けることになりました。「完全主義者」といわれ、映画製作全般にわたり、すべてを掌握する姿勢をとり続けました。

スティーヴン・アラン・スピルバーグ

Steven Allan Spielberg(映画監督)1946年オハイオ州でウクライナ系ユダヤ人の家庭に生まれ、アリゾナ州で育ちました。父のアーノルド・スピルバーグ (1917 - ) は電気技師、母のリア・アドラーはコンサートピアニストのもと生まれました。父の仕事の都合上、引っ越しが多かったといいます。ユダヤ人であることと、ディスレクシア(学習障害の一種)があるため同級生より読み書きを修得する速度が遅く、このためいじめも受けたこともありました。監督としては、世界最高のヒットメーカーの一人として挙げられます。アカデミー賞には縁がないと言われ続け、スピルバーグ自身も「私はアカデミー賞を獲れないだろう」と1981年に発言しましたが、1993年『シンドラーのリスト」1998年『プライベート・ライアン』でアカデミー賞を受賞。『プライベート・ライアン』での受賞スピーチでは「どうしても欲しかった」と語りました。

『未知との遭遇』と『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』で監督賞、『E.T.』で監督賞と作品賞にノミネートされましたが、受賞は出来ず。『カラー・パープル』では作品、脚色、主演女優賞を含む10部門にノミネートされながら全て逃したうえ、スピルバーグ監督自身は監督賞にノミネートもされないという苦い思いを味わっていただけに、受賞は嬉しかったようです。たくさんの作品がありますが、代表作をあえてあげるなら、『ジョーズ』シリーズ、『インディ・ジョーンズ』シリーズ、『ジュラシックパーク』シリーズ、『E.T.』『シンドラーのリスト』『プライベートライアン』でしょうか。

クリストファー・ゲスト

(映画監督) Christopher Haden-Guest, 5th Baron Haden-Guest 1948年アメリカニューヨーク生まれの映画監督ですが、特に脚本を書き主演もした1984年の『スパイナル・タップ』が有名です。この作品のために架空のバンド "スパイナル・タップ" を作り上げ、その全米ツアーに密着するというドキュメンタリー方式は "mockumentary"(モキュメンタリー)と呼ばれる手法です。彼の母親は東欧系ユダヤ系アメリカ人ですが、父親はイングランド貴族の出のため、1996年に父親が死去により、第5代ヘイデン-ゲスト男爵を受け継ぎ、1999年のトニー・ブレア内閣による改革までイギリス上院に議席を有していました。代表作は・スパイナル・タップ (1984) ・サタデー・ナイト・ライブ (1984~1985)・リトルショップ・オブ・ホラーズ (1986)・ニューヨーカーの青い鳥 (1987)・プリンセス・ブライド・ストーリー (1987)・ア・フュー・グッドメン (1992)・ドッグ・ショウ!(2000)・みんなのうた (2003)・ヘンダーソン夫人の贈り物 (2005)・ウソから始まる恋と仕事の成功術 (2009)

コーエン兄弟 

The Coen Brothers( 映画監督)ジョエル・コーエン(1954年)とイーサン・コーエン(1957年)の兄弟。二人はミネソタ州ミネアポリス郊外のセントルイスパークで生まれました。父親のエドワードはミネソタ大学で経済学、母親のレナはセントクラウド大学で美術史を教えていました。少年時代から兄弟は読書や映画鑑賞を趣味としており、兄ジョエルが貯めたお金で8ミリ映画撮影用機材を購入し、近所で仲間を募って映画を撮り始めたこともあったようです。二人はマサチューセッツ州のバード大学サイモンズロック校を卒業。兄のジョエルはニューヨーク大学で映画製作を学び、弟のイーサンはプリンストン大学で哲学を学びました。ニューヨーク大学を卒業後、ジョエルは映画やミュージクビデオのアシスタントとして働き、プリンストン大学を卒業したイーサンと一緒に、兄弟は共同で脚本の執筆を始め、それを彼ら自身の手で映画化した処女作『ブラッド・シンプル』(1984年)を発表しました。この作品はインディペンデント・スピリット賞の監督賞を受賞。一躍インディペンデント映画界で注目される存在となりました。その後20世紀フォックスと契約。バートン・フィンク』(1991年)でカンヌ国際映画祭でパルム・ドール、監督賞、男優賞の主要3部門を制覇、兄弟の国際的な知名度は上がりました。兄弟は『バートン・フィンク』を皮切りに、『ファーゴ』(1996年)、『バーバー』(2001年)でも監督賞をそれぞれ受賞している。『ノーカントリー』(2007年)では同年度のアカデミー賞で作品賞を始めとする計4部門を受賞。名実ともに現代のアメリカ映画界を代表する巨匠として注目を集める存在です。